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いきなりロックとはこうである、というのも難しいので、まずロックの外延から攻めますと、一つ言いたいことがあります。ジミ・ヘンドリクスの音楽はロックではありません。ひとはしばしば、ロックの象徴のようにヘンドリクスの音楽を挙げますが、わたしに言わせれば、ヘンドリクスの音楽は、むしろロックと正反対の音楽です。
ついでロックの内包を限定するためにあっさり言うと、ロックは音楽です。さらに、白人にしかできない音楽です。ただし、ヘンドリクスの音楽がロックではないというのは、ヘンドリクスの肌が白くないから、ではありません。ここで「白人」というのは、比喩にすぎません。強者と言ってもよいかもしれません。ロックは強者にしかできない音楽です。もっと言えば、成功者の音楽です。
ロックは、弱者の遠吠えではありません。強者が、うしろめたさを感じながら、弱者のふりをするときに成立する音楽です。
ロックをすることは、うしろめたいことなのです(ところが、ロックをきく(みる)ひとはうしろめたくありません。)。
ロックをすることは、あるものを開放するのではなく、開放すればするほどかえって鬱屈する(またしてもところが、ロックをきく(みる)ひとはもっぱら開放することができます。)、そういった類の行為です。
だから、本来ロックは長続きするのです。正しくロックができるひとは、ほどよく開放し、ほどよく鬱屈し、つまりはバランスよく、ヘルシィに生きます。「ロックは早死に」というイミッヂが巷にありますが、たんなる誤解です。
ロッカーとは、アウトローではなく、アウトローであるようにみせかけて、ほかでもない王道をひた走るひとです。
(でも、ロックは音楽なので、音楽家がどうあるかによって規定しないようにしなければなりません。)
つづきます。
(春木)
Awake Sounds Audition出馬、健闘がきっかけともなり、このたびRecto Bersoは、VASH MAGAZINE企画、VASH大阪主催、ポニーキャニオンミュージック後援のオーディション兼ライヴコンサート「おひとり様おふたり様ショウケース」に出演いたします。出演時間は未定ですが、数日前におしらせします。15分ほど演奏します。前売りチケットは、コメント欄より、ご希望をおよせください。よろしく、よろしくお願いします。
イヴェント名:『バッシュ発掘ライブ~おひとり様おふたり様ショウケースVol.21』LIVE/
日時:2月26日(火曜日)
開場:17:00 開演:17:30
場所:大阪心斎橋クラッパー http://www.clapper.jp/
出演者:キセキ、冨田実沙子、堀望美、くしだこうじ、Recto Bersoなどなど
料金:1500円/当日2000円(のみものは別料金です。)
第一に、へたうまは、パラドクスです。「へた」と言っておきながら「うまい」と言う。へたうまと言うとき、一見へただけどじつはへたでない、と言いたいのか。ちがいます。むしろ、へただけど、へたなまま、あるいはへただからこそへたではないと言いたいのでしょう。つまり、へたがエレメントとなってへたではないことが成立している、典型的なパラドクスです。パラドクスがなんらかの意味をもって成立する以上、そこには種としかけがあるはずです。
わたしのつくった料理を食べたひとが「うまい」と言えば、それは「美味い」を意味します。ついで「きみは料理がうまいね」と言うとき、それは「上手い(巧い)」を意味します。「美味い」と「上手い」、こられ二つのうまいのニュアンスのちがいに気づくこと、これがへたうまを解き明かす第一歩です。
つまり、へたうまは、ある種の価値評価ですが、そこには二重の価値が介在しています。ひとつは、最初の「へた」です。これはたとえば、音楽の演奏において、単純な意味で音高がずれているとか、リズムがよれているとかいう事実を評価しています。おおきくまとめれば、頭で理解できる技術にかんする評価をしています。うしろの「うま」は、頭で理解できる技術ではなく、あるいは、技術ですらなく、ほとんど「よい(「好き」と置き換えてもよいが、ややこしくなるのでとりあえず「よい」でいきます。)」と一緒ですね。「うま」と言いつつも、じっさいには、技術にかかわることを評価しているのではないです。単なる「よい」という感想です。
そのことを踏まえれば、へたうまは、じつは、元々は「うまへた」です。ややこしいことを言うようですが、以下のような意味で、です。うまへたは、へたうまの反対だととらえると、「技術はすぐれているのに、悪い」という意味です。その場合、最初の「うま」は技術にかかわる評価で、後の「へた」は、端的に「悪い」という感想です。それに対して、へたうまが元々うまへたであると言う場合のうまへたは、「よい、でも(よい割りには)技術は劣っている」という意味です。へたうまというのがききての評価であるかぎりは、へたうまという評価の前に、うまへたという評価がないとおかしいと思うのです。つまり、まず、ある音楽(家)にかんして、
1.「うまい(よい)」という評価があり、
2.よいけども意外に「へた(技術的にうまくない)」だという評価があり(「うまへた」となる。)、
3.そして、そこから、へたな部分がうまくなればさらによくなるかと言えばそうではなくて、実はへただからこそうまかった(よかった)のだというあとづけの事実が加わり、「へたうま」となるのです。
ゆえに、「ほんとうは」へたうまは、たんにうまい(よい)だけであって、へただからこそうまい(よい)のではなく、うまい(よい)音楽(家)が、〈たまたま〉へたであったというだけのことです。つまり、言いたいのは、「へたうま」という評価をするひとは、ある音楽が、(技術にかんして)へただから(こそそのことによってかえって)、うまい(よい)という因果関係を築いているわけですが、なにを根拠に築いているのかということです。
(技術にかんして)うまいという時点で、そもそも(技術にかんして)うまいことは、うまい(よい)感想をもたらすという前提があります。そうでないと、うまいという見方自体が発生しないからです(つまり、そもそもは、美味い料理をつくる技術が、上手い技術だとみなされるわけです。)。他方で、へたうまは、ふつう((技術にかんして)うまいがうまい(よい)につながる場合)とはちがって、(技術にかんして)へたがうまい(よい)につながっているという評価です。その場合、(技術にかんして)へたなことがうまい(よい)につながるには根拠が必要です。なぜなら、前提に反することを言おうとしているからです。しかし、じっさいには根拠はありません。とすれば、なぜ、(技術にかんして)へたなことがうまい(よい)につながると言えるのか。それは、じつは、へたなことがうまい(よい)につながることがあるということもまた前提であるからです。
つまり、へたうまを叫ぶひとは、ふつうとはちがって、(技術にかんして)へたなことがうまい(よい)につながるということを言おうとしているにもかかわらず、言う前にすでに、(技術にかんして)へたなことがうまい(よい)につながるということはある種の周知の事実なのです。このことは、A=Aを理解するために、「A=A」を知っていなければならないというのと同じでしょうか。
以上のことから、へたうまと言うときの「へた」には、すでに、「(へただけれども)うまい(よい)につながる」という意味が含まれていることになります。とすれば、へたうまの「へた」は、最初から、へたではなく、うまい、です。だから、へたうまは、「うまうま」つまり、たんに、うまい(よい)ということを言っているにすぎないのです。
「へたうま」の意味を理解するためには、(技術にかんする)へたが、うまい(よい)につながることを知っていなければなりません。しかし、(技術にかんする)へたが、うまい(よい)につながることを知っているならば、いまさら、へたうまという評価をする意味はなく、へたうまは、たんなるうまい(よい)と同じ意味になってしまいます。うまい(よい)、そして、たまたまへたである、と言うにすぎません。うまい(よい)、そして、たまたま声が低いというのと同じように。」
上記から、わたしが言いたいことは、要するに以下のことです。すなわち、「よい」という感想をもたらす演奏をそもそも「うまい」と言うはず(それがうまいの文法上正しい使いかたである)です。にもかかわらず、「よい」という感想をもたらしているある特定の演奏を、なぜ「へたうま」と評価するのか、ということです。音高がずれていようがなかろうが、ある音楽が「よい」という感想をもたらすならば、その音楽の技術は「うまい」と言わなければならないのではないでしょうか。「へたうま」だと言いながら音楽を鑑賞することは、「まずい。まずい。」といいながら満面の笑みで、ある料理を口に運び続ける行為に等しいです。
「へたうま」がすでに成立し、コンセンサスを得ている以上、へたうまという「うまい」感想をもたらす技術を一つの「うまい」技術だとらえることもできるし、じっさいひとはそうしています。ということは、へたうまをやろうとして成功するときは、へたうまうま、失敗するときはへたうまへた、と言われるのでしょうか。
ともあれわれわれが考えるのは、われわれのつくる料理(音楽)が、「巧い(うまい)けど不味い(まずい)」と言われるか、「拙い(まずい)けど美味い」と言われるか、どちらがうれしいか、ということです。
(春木)
たまには抽象論も書きましょう。
われわれはねくらなので、よく自分たちを分析します。
その結果しばしば、西中さんと春木は、同じところを目指すが、経路がちがう、という結論にいたります。
たとえば歌詞のつくりかたがそうです。
ポップソングの歌詞にひんぱんに出てくる"love"という語があります。日本語で言うと、「好きや」、とか「愛すること」、「愛」とか「恋人」という意味になります。
春木はいままでに書いた数十という曲のなかで、loveという語は一度も用いていません。かたや西中さんは、多くの曲に用います。
春木がloveを用いないのは、その語のイメージに歌が染められることをおそれるからです。要は、自分の歌がラヴソングだとみなされるにとになんらかの抵抗があります。低俗だと思われるからというのが最初の理由だった気がしますが、いまや意地です。しかし、春木の歌たちはラヴソングでないかと言うとそうではなく、むしろ色恋沙汰をテーマにしているように思われる内容を持っています。しかし、ラヴソングだと確言できないようにつくってあります。いわば証拠不十分にて無罪獲得です。loveの一語さえあれば有罪確定ですが、どこにもみあたりません。
かたや西中さんは、loveを連発します。ところかまわずぶちまけます。あそこにも、ここにもloveがあらわれます。ゆえに西中さんのほとんどの曲はとりもなおさずラヴソングですが、あまりにloveにあふれすぎて、そしてさまざまな意味をもちすぎて、いちいち首ねっこをつかまえて、こいつがラヴソングだ、とひっぱりだすのもばからしくなります。ある歌に"I"という語があるからと言って、その歌が「アイ」ソングだとは言いません。それは、”I”がとるにたらないことばとみなされているからです。それと同じで、西中さんのラヴはとるにたりません。西中さんのラヴソングは、もはやたんなるソングです。有罪者(犯罪者)が有罪者であることの意味を確保するには、有罪者が無罪者よりすくないことが前提となります。もし有罪者が無罪者より多くなると、「有罪であることに対する罪の意識」がなくなるでしょう(むしろそのとき、「罪」の外延は反転し、無罪者が有罪者になるでしょう。)。つまりは、西中さんのラヴソングは、ラヴソングであるという特別さを失っており、ラヴソングでありながら、ラヴソングではありません。
春木は、loveに対してみなが抱くだろうあるイメージを前提としながら、かぎりなくloveを喚起する歌を、しかしloveを用いずに書きます。loveの外堀を限界まで埋めて、中央の空白にloveの座を用意しますが、空席のままにします。そこに座るのはloveだとみなわかっていますが、期待のひとはあらわれません。結果、loveに対する期待とフラストレイションだけがつもりつもって、歌の内容は、かえって(幻の)loveにあふれます。loveなきラヴソングの成立です。
西中さんは、loveを濫用し、かつloveにさまざまな意味を負わせたために、loveは行き場を失い、さまよい、疲れ果てて死にます。loveの意味作用を使い果たしたと言ってよいでしょう。そこには、中身のない、loveの抜け殻があるだけです。loveにあふれたノンラヴソングです。
はたしてみなは、春木の歌では、不毛に終わるloveの子を期待し続け、西中さんの歌では、loveの死骸に埋もれます。
春木はloveの姿を消すことでその存在感を極大化し、西中さんは、loveの姿を偏在させることで、その存在感をゼロにしたと言えるでしょう。
「昔はプロテストソングを歌っていたのに、どういうわけでラヴソングばかり歌うようになったのですか。もうプロテストソングは歌わないのですか。」
と、記者にきかれたボブディラン氏は言います。
「プロテストソングは、最高のラヴソングだ。」
http://jp.youtube.com/watch?v=sk9vcv3THvM
(春木)
1月14日(月曜日)(祭日)
場所:ハードレイン(最寄り駅:阪急梅田駅、JR大阪駅など)
1月17日(木曜日)
場所:京都アバンギルド(最寄り駅:阪急河原町、京阪三条)
開店時間:18時30分
結果は、5日に発表されるとのことですが、「規定どおりに」得票数で順位をつけるという前提で、われわれの集計によれば、Recto Bersoは第2位となります。さいごの数日は、得票数第1位のかたと絵に描いたような接戦をくりひろげました。
以下、さいごの1週間の得票数です。26日には、Recto Bersoは約10000票差で1位に立っておりましたが、最後の4日で連敗、けっきょく約3000票差で第2位に甘んじる結果となりました。とくに最終2日の第1位のかたの底力には完敗です。
応援いただいたみなさま、われわれの力およばぬばかりに、おそらくはご期待に沿えず、もうしわけありませんでした。また、一定の環境および地域、とくに外国から投票いただいたみなさまのなかで、投票できないというかたがおられました。なにかしらのシステム上の不備かと思いますが、ご不便、お手間、ストレスをおかけしてもうしわけありませんでした。
Recto 得票数第1位のかた
03 | 2025/04 | 05 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | ||
6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 |
13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 |
20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 |
27 | 28 | 29 | 30 |
西中、春木、ふたりの自作自演歌手から成るロック・アンド・ロール・グループ。グループ名は、ラテン語のRecto Verso(おもて、うら)に由来。ひとをはっとさせる、かつ親しみやすいメロディをつむぎ、地域、時代にとら われず広く長く世に歌い継がれる歌をつくりだすことがヴィジョン。英語、フランス語、日本語でつづったオリジナルレパートリーは30曲、ストック曲は 120を越える。東京を中心に生演奏会を展開。楽器、録音器材にこだわりぬいた100%手づくりの音源もききもの。現在、岡田徹(ムーンライダーズ)のプ ロデュースのもと1stミニアルバム(2012年8月発売予定)を制作中。
使用録音マシン:Telefunken V72a 1960年代製、Telefunken V76 1960年代製、Telefunken U83 1950年代製、Microtech Gefell UM92S 1990年代製、Telefunken D19 BKHI 1960年代製、AKG B200 1960年代製、AKG D19CRCA 77DX 1940年代製、Neumann W444sta 1970年代製、Eckmiller W85
ヒストリィ:
2006年10月 西中と春木が出会う。
2007年1月 「Recto Berso」結成、および初めての生演奏会をする。
2007年3月 インターネットラジオ「噂のギグ」に出演する。
2007年6月 インターネットラジオ「噂のギグ」に出演する。
2007年11月 吉川忠英氏らとセッションする。屋敷豪太氏も同席。勉強する。
2007年12月 EMI主催オーディション 第1回Awake Sounds Audition 準優勝をおさめる。
2009年2月 ビーイング音楽振興会主催 2009BADオーディション最終選考通過
2009年3月 アルバム完成にむけて、録音をいっしょうけんめいにする。
2010年7月 アルバムのプリマスター版が完成する。
2010年10月 音密団により発掘、育成される。
2011年7月 BELAKISSのメンバー全員に、プリマスター盤を手渡す。