[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
2年ほど前か、ちょうど今日のような、夏も盛りのころでした。
当時はよく大阪モノレイルに乗って、太陽の塔(神)を拝みにいったものです。
駅に着いたモノレイルに乗りこんで、つり革につかまるや、横に「乗りつけて」くるひとがいます。すこし屈強な風のそのひとは、わたしの隣のつり革につかまって、ひじをぐいぐいと押しつけきます。わたしはさっとひるがえり、席に着きました。すると、車内はがらんと空いているにもかかわらず、わたしのひざに、自分のひざを押しつけながら、またぐいぐいと、体を押しつけてくるではありませんか。
ははん、とわたしは思いました。どうやら、わたしがこのひとの気分を害したらしいのです。モノレイルに乗りこむときに、順番を抜かしたのか、わたしのかばんがそのひとにあたったのか、そんなところでしょうが、わたしの行動になにか文句があるようです。
「何なんですか。」わたしは訊きました。するとそのひとは、「はぁ?」車内に響きわたる大声で返答をかぶせてきます。「何なんですか。」ともう一度。「は?」とまたもや間髪入れずにかぶせてきます。要は嫌がらせです。
しかたがないので、「ケスクヴヴレ?(何なんですか。)」と、フランス語で訊いてやりました。すると、「は?」の一辺倒だったのが、「!!...外国のかた?...これは失礼した。」ときました。さっきまでわたしは日本語で訊き続けていたにもかかわらず、です。続けて「韓国のかた?」とくるので、「いや、フランス人だ。日本語を勉強している。」と英語で言うと、通じたもよう。車中そのひとのとなりで、わたしは日本語のこむずかしい原稿を読みふけり、降りぎわに、「今日はどうもありがとう。」と手をさしのべると、「がんばってください。」と、屈強な手でがっちり握られました。わたしはこみあげる失笑をおさえきれず、駅のホームでふきだしてしまいました。にもかかわらず、閉じたドアーの向こうで、そのひとは、にこにこと手をふりながら、モノレイルに揺られて、消えていきました。
このひとの一つ目のおかしさ。それは、「外国のかた」なら、なぜか赦す、という点。外国人は日本の礼儀を知らないから、わたしがなにか失礼なことをしたとしても、わたしが外国人だということになれば、それはしかたないこと、という意味で赦されるのでしょう。これだけでも十分におかしいですが、まあ、よいでしょう。このひとのおかしさの醍醐味はその先にあります。
二つ目のおかしさ。それは、日本の礼儀を知らないからこそ赦した外国人に対して、それは「失礼した」と謝ってしまう点です。礼儀が通じない世界で生きるとみなしたひとに対して、なぜ、礼を失したことを謝る必要があるのでしょうか。
わたしが外国人で、そのひととは異なる礼儀の世界で生きているから、わたしがそのひとに対してした行為はそのひとによって、赦されました。他方でそのひとは、わたしの(悪い)行為に対する仕返しで、自分もまた嫌がらせか意地悪、要は悪行をしていたという意識があったらしく、わたしの行為が赦された瞬間、仕返しという名目で正当化されていた自分の行為が、余剰の悪となり、それを処理すべく、謝罪することになったわけです。
でも、あるAという行為を受けて、それに対してA'という行為で仕返しした場合、Aという行為が赦されるなら、A'という行為も赦されるべきです。べき、というのは、そもそもA'は、Aに対して悪である点で等価な行為と位置づけられたうえで構成され、なされているからです。
なので、そのひとは「失礼」ではまったくないのです。外国人であるわたしに対しては。にもかかわらず出てしまった、そのひとの「失礼した」ということばは、けっきょくそのひと自身に、いかに、自分が意地悪をしているな、という自覚があったかということを表しています。
モノレイルの改札を出たわたしは、その日も、「国際化」の未来とともに光り輝く「神」に向かってゆっくりと歩を進めていったのです。
(春木)
進めば進むほど分岐する無限回廊。しかし進まねばなりません。100テイクス、200テイクスの堆積のなかにときとして、燦然と輝く奇跡のテイクがあります。もちろんないときもあります。だれもできる、しかしだれもやりたがらないこうした砂金さらいこそが、ポップスを生むのでしょう。他方アンダーグラウンドに棲むひとたちは、こうした作業を嫌います。アンダーグラウンドのひとびとは、しばしば言います。「生演奏こそ最高だ。」「一発録りの空気感がいいのだ。」、と。ちがうでしょう。生演奏がよいのは、そのときの演奏が端的によいからであって、「生だから」よいのではありません。一発録りがよいのは、その一発録りテイクスが重ね録りテイクスにまさるときにかぎり、であって、「一発録りだから」よいわけではありません。
砂金さらいが面倒なひとは、砂金さらいなんて意味がない、砂金さらいよりも大事なことがある、と思いこもうとします。そうすると、砂金さらいを放りだすことを正当化できるからです。コンプレックスとルサンチマン(ねたみ)に基づく価値転換です。アンダーグラウンドからは、こうして堆積したねたみの死臭がぷんぷんとするのです。アンダーグラウンドの墓碑に彫られた金科玉条は、「自分らしいから」と「これが好きだから」です。だれも、あなたの「らしさ」も「好み」も要りません。
「意志は天を突くほどに、頭は地を這い、土をなめるように」と、あるおっさんは言いましたが、よいことばです。高い理想をもつ者ほど、体を動かし、ごみにまみれ汗をかき、他人に土下座もするのです。目立とうとして、他人を見おろそうとして、上がろう上がろうとするほど、理想は下がります。
Recto Bersoはアンダーグラウンドを見おろしますが、もちろん理想は高いです。「どのへんをめざしてるの。」と訊かれて、「バッハかビートルズです。」と答えると、しばしば苦笑されます。なぜでしょう。苦笑するひとをみて、わたしは胸のうちで苦笑します。バッハになることは「できる」のですよ。
とはいえさっさと終わらせて、晴れ舞台にたちたいものです。2010年にデビュも悪くない。
(春木)
ところが、です。どんどんどんどんコーヒーの量を減らしていくとついに、100%牛乳にたどりついたのです。スターバクスでも、ワイトホットチョコレイツというものを頼みます。コーヒーは入っていません。
コーヒーなど、はなから飲まなくてよかったということです。酒もからしもわさびも、いやなら摂る必要はありません。おとなの味、と言われているものは、それがおいしいと思ってしまうと、子どもが終わる、のでしょう。にもかかわらずみな、こぞってわかろうとします。たぶん暇だからなのでしょう。
むかし双葉双一さんが、「ひとりで生きていけない理由なんて、だれにもないのさ」と歌っておられました。まさにそのとおりです。すばらしい洞察。ひとりで生きているのではない、とわかることがおとなになることだと思いこんでいるひとがどれほど多いことか。いや、むしろ、ひとりで生きているのではない、とわかることはおとなになることです。しかし、かしこくなることではありません。
なければならないこと、はどこをさがしても、ありません。なぜなら生きなければならないことすらも、ないからです。かといって、死ななければならない理由もありません。
生きる「べき」か、死ぬ「べき」か、それは問題ではありません。ただ生き「たい」か、死に「たい」か、それだけが問題です。
(春木)
よいネックグリップを評して、日本人は「手に吸いつくようだ」と言うことがあるいっぽうで、アメリカ人は、売り文句に”just as comfortable as an old friend”などと表現しもます。よい表現です。だれの友だちなんだよ、とつっこむのやぼです。だれの友だちでもあるのです。何年、何十年も使いこんできて、慣れ親しんだからここちよい、というのではないからです。はじめてにぎるのに、すでに何十年もにぎり続けてきたようにしっくりくるのです。
じっさいに慣れ親しんだからよい、というのであれば、ほんとうに「よい」かどうかなんて、わかりません。くされ縁は、しょせん「くされ」です。よいものは、慣れ親しんでいないのに、慣れ親しんだのと同程度によいから、よいのでしょう。タイム・パフォーマンスがよい、つまり、慣れ親しむための時間をロスせずにすむわけです。(春木)
つまり、いま、記録の段階はほぼ終えて、編集の段階にいます。今回のレコードに入れる曲では、ほとんどの歌パートに、ダブルトラック(トラッキング)という方法を適用しています。ダブルトラックとは、要は、同じ音程の、同じ音長の同じ音色の音(たとえば同じ歌手の声)を二つ(以上)同時に鳴らす方法のことです。この場合の「同じ」は厳密には、「ほぼ同じ」であって、まったく同じではありません。いまは音のディジタル複製ができ、ディジタル複製をした音は原理上、同じ音です。同じ音を二つ鳴らせても、個別の音よりただ大音量の一つの音が鳴るだけで、つまりは、「二つの音」になりません。ですから、ダブルトラックという方法は、「あらかじめ差異を含んだ同一の音」を複数鳴らす、というコンセプトに基づいています。
ダブルトラックでなにができるのでしょうか。ダブルトラックの処理を受けた歌パートは、きいたときに、たいていの場合、一つの音よりもよりふくよかな一つの音、となります。二つの異なる、しかしきわめて似た音がたがいに干渉しあいながら響きあうことで、ごく短いエコーにも似た効果が生まれます。しかし、エコーとはちがいます。ダブルトラックの二つの音は原音と残響音という固定した役割をもちません。どちらもがたがいに対して原音であり残響音であるというアンビヴァレントな在りかたをします。こうした、一つの音でありながら二つの音であるダブルトラックを使うにさいしては、一つの音と二つの音のあいだのどこに自分の理想のダブルトラックを位置づけるか、そのバランスのとりかたがポイントとなります。
二つの音の差異が激しい場合は(たとえば二つの音のあいだで音程がひどくずれている場合などは)、ふくよかな一つの音ではなく、たんなる二つの音(ツートラックス)にきこえます。こうなっては、ダブルトラックの醍醐味はありません。ぎゃくに、かぎりなく一つの音に近づける方法、アーティフィシャルダブルトラック(トラッキング)という特殊な方法もあります。これは、音声記録の段階では同一の音から、編集段階で異なる二つの音をつくることです。つまり、アナログ複製によってダブルトラックをつくります。ディジタルとはちがって、アナログで複製した場合は、複製であっても、複製媒体の不純物が混ざるため、完全に同一のものができません。この不完全な複製性能を(ある意味では)利用して、一つの、しかし二つの音を鳴らすことができます。ただしこの場合は、上手に不純物が混ざるしかたで複製しなければ、たんにちょっと大音量の一つの音にきこえてしまいます。
今回のレコードでは、音声記録段階で異なる音に基づくダブルトラックをつくっています。この方法でいく場合は、経験則でいえば、はじめから(ナチュラルに)に異なる音を用いるので、あとはナチュラルなレヴェルでの差異を小さくする、つまり歌手の側のスタンスで表現すれば、できるかぎり同じように歌った音を用いるときのダブルトラックの響きが理想です。これは歌手の側にしてみれば、ある種の制約にもなります。たとえばビートルズ初期のレノンのダブルトラックの歌パートには、ばらばらな感じ、つまり二つの音にきこえてしまうという傾向があります。他方で、マッカートニィのダブルトラックはよりまとまっています。これは裏から言えば、レノンの歌のスタイルに、マッカートニィに比べて、よりソウルフルな要素がある、ということです。ソウルフルとは、表現が豊か、というくらいの意味で言っておりますが、分析的に言えば、声のトーンのめまぐるしい変化や、シャウトやかすれといった歌手自身が制御しにくい効果音といってもよい技術を多用する、ということです。とくにレノンの場合は、そうした技術の効果をある程度偶然にまかせているので、そもそも同じように歌おうという意識も希薄です。こうした、ある種の一回性、あるいは、歌うたびごとのばらつきを醍醐味とする歌の表現上の要素は、いわばアーティフィシャルダブルトラックにになるべく近いナチュラルダブルトラックを志向する場合、ダブルトラックには向かない、と言えるかもしれません。もちろん完全にコントロールされたソウフルネスがあれば、問題はないでしょう。しかし、そうした表現力を得ることは簡単ではありません。とすれば、ダブルトラック用の歌を歌うときは、ソウルフルにではない風に歌う、ということが条件になってきます。これがダブルトラックをつくる場合の、歌手にとっての制約です。
しかしこうした「制約」は、われわれにとってネガティヴではありません。歌ううえでの制約を含むようなダブルトラックを好んで使うこと自体、そうしたダブルトラックに即した音楽を好んでいるからです。すなわち、歌う側の制約は同じように歌う、ということですから、そうした制約をよしとするということは、ひるがえして言えば、旋律を固定することをよしとする、ということです。ダブルトラックは、元々は、ビートルズらの時代に、一発録りでレコードをつくっていたころ、「旋律である」歌パートを埋もれさせないために使われた技術です。「へたな」歌をカヴァーするという効用もありました。しかしこんにち、歌手の表現力、録音技術の向上により、「必要性」はとぼしくなりました。それをいま、必要とするならば、それは、音楽上のスタンスの選択を意味します。その日の気分にまかせた演奏よりも、練りに練られた旋律の重視。旋律はもうつくりつくされた。旋律で個性は表現できない、という風なあきらめの裏返しの達観の下、その日の自分の気分にシンクロすることを客に求める音楽家、演奏家が散見されます。また客の側もやぶさかではない、という現状。旋律を食う「表現力」ならどぶに捨てるべきです。一見いんちきなダブルトラックという方法とともに、まじめな音楽を提供したい、というのがRecto Bersoの願いです。
だから、もうすこし、完成まで、しびれをきらしながら、お待ちください。
ここ数年、「脱力」することがもちあげられています。同時に、「ゆるゆる」とか「ぐだぐだ」とか、脱力を喚起する語が、ある行為の状態や、行為の主体のスタンスや状態を形容するために用いられます。そして多くの場合、「脱力」することは、ポジティヴにとらえられています。ひとは積極的に「脱力」し、また、「脱力」するひとを鑑賞します。音楽にもこうした傾向はみられ、「ほっこり」したカフェで、「脱力」したステイジを、「ゆるい」ムードにひたって、楽しむ音楽家も音楽愛好家もあとをたちません。
わたし自身は、とくに「脱力」を支持しませんし、愛好しません。よって、「脱力」するひとたちはどこからでてきて、じつのところなにを楽しんでいるのか、ほんとうに「脱力」しているのか、といった疑問がふつふつとわいてきます。
あるひとが生きていくこと、その構造を、そのひとが「できること(しうること)」、「したいこと」、「しなければならないこと」をという視点から一定のしかたで整理することができるでしょう。(ただしここで、「できること」は、「可能性」ではなく端的に「可能なこと」を意味します。つまり、将来できるかもしれないことではなく、いまできること、すなわち「できていること」と考えてよいでしょう。)
ひとは「したいこと」に対して、「できること」をあてがい、「したいこと」から「できること」までの隔たりを「しなければならいこと」で埋めます。これが第一の生きかたで、たいてい、こどもを育てるひとたちは、基本上この構図にのっとりますし、こどももこの構図を了解します。ただ、実践するうちに、「しなければならないこと」が先に来て、「したいこと」がひっこんでしまうと、いわゆる「つめこみ」とか、「受験戦争」ということばで批判される構図にシフトします。
こうした構図を批判するひとたちには、「したいこと」があって、「できること」があり、「しなければならないこと」が規定されるのが自然だという前提があります。「つめこみ」を実践するひとたち(親や教育者)は、自分の「したいこと」(こども立派にしたてあげたい)をこどもにあてがい、結果、こどもからみれば、親の「したいこと」は自分にとって「しなければならないこと」となって現れるだけで、自分の「したいこと」ではない、ゆえに、親は構図をくずしているので、批判されることになります。
他人がくれる「しなければならないこと」をうのみにして、そつなく、楽に、うまく生きるこどがもいます。それはそれで問題はありません。
ぎゃくに、他人から課せられるという、それだけでいやになってしまうこどももいます。しかしながら、そうしたこどもは、いざ、では「したいこと」を自分で設定して、「できること」を引いて、「しなければならないこと」をみちびきなさい、と言われれば、かならずしもできるわけではありません。「しなければならないこと」をおしつけられるのはいや、しかし、自分で「したいこと」をみつけることはできない、結果、うまくいかないことを他人のせいにしたり、自分のせいにしたり、右往左往します。
こうしたこどもが考えつく別の生きかたがあります。それは、「できること」を出発点に生きる生きかたです。「したいこと」に対して「できること」をあてがうのではなく、「できること」に「したいこと」を合わせてしまうのです。つまり、できることしかしない、無理をしない生きかた。これが冒頭に述べた「脱力」とか、「ゆるい」と形容される在りかたに通じています。「趣味に生きる」、「素人の愉しみ」といったものも、場合によれば、この部類に入るでしょう。
この生きかたは、「脱力」と言いつつ、けっこう狡猾なやり口です。こうした生きかたをするひとたちは、「価値の転倒」をはかっています。「貧しきひとはさいわいなり」の原理で、高くておいしいものが食べたい→金がない→成功して金持ちになろう、といくのではなく、金がない→安いものしか食べられない→安いものもじつはおいしい、高いものはじつは高いだけでおいしいかどうかわからない、おいしいとしてもたまに食べるからおいしいのだ、質素な生活こそじつはしあわせだ、と、金額の高低は、「表面上の価値」で、「真の価値」のうえでは、金額が高いものこそ低く、金額が低いものこそ高いのだ、と価値体系を反転させてしまうわけです。つまり、従来の価値とは別の「真の価値」をたてて、自分の「できること」こそが「したいこと」である、と、したがって、「しなければならないこと」はもはやない、といなおってしまうわけです。これは、従来の「力」、つまり、下から上へはいのぼる力(いわゆる努力)を否定し、上と下を支える価値の枠組み全体を、その枠組みの外から、別の「力」を使ってひっくりかえす作業で、「脱力」どころではありません。
にしても、この価値転倒が自分の内部で成功すれば、それでうまく生きられるのでしょうか。この生きかたには、じつはジレンマがあります。この生きかたによれば、いかにも脱力して、自然体に、自分なりに生きられるように思いますが、価値転倒は、じっさいには自分「ひとり」ではできません。新たにたてられる「真の価値」も、じつはある程度ひろく認知されていないと、転倒は成り立ちません。つまりは、「脱力」はよいですよ、という前ふれこみがなければ、「脱力」できないのです。努力を回避すべく別の生きかたをさがすひとは、そのとき、新たな価値体系をさがしているだけで、価値そのものを否定してはいないからです。努力はしなくても自分なりに生きればそれでよいですよ、言っているひとたちがそこそこいるので、そのメッセージをこれはしめた、と無批判に真に受けただけです。けっきょくは、「しなければならないこと」を回避しようとすること自体を「しなければならないこと」に設定しているだけです。
ほんとうに「脱力」できるひとは、なんらの価値体系をも必要としません。そのひとが「できること」は、期せずして「したいこと」に一致しており、「したいこと」を「できること」にひきよせる力を必要としません。ほんとうに「脱力」できるひとは、そもそも「しなければならないこと」があることに対して不快感すら感じません。元々「脱力」しているので、「脱力」を知りもしないのです。生きていくうえでひとたび課題に不快感を感じ、努力からの回避のために「脱力」に走るひとは、楽に生き「なければならないこと」からいつまでも逃げられず、けっきょく価値転倒をくりかえして、右往左往してしまうのでしょう。
ステイジ上で「脱力」のムードにひたっているひと、「自己の解放」感にひたっているひとをみると、いたいたしく感じるのは、こうした「脱力」の構造が在るせいかもしれません。そうしたひとたちが真にめざすべきは、脱「脱力」なのかもしれません。(春木)
いきなりロックとはこうである、というのも難しいので、まずロックの外延から攻めますと、一つ言いたいことがあります。ジミ・ヘンドリクスの音楽はロックではありません。ひとはしばしば、ロックの象徴のようにヘンドリクスの音楽を挙げますが、わたしに言わせれば、ヘンドリクスの音楽は、むしろロックと正反対の音楽です。
ついでロックの内包を限定するためにあっさり言うと、ロックは音楽です。さらに、白人にしかできない音楽です。ただし、ヘンドリクスの音楽がロックではないというのは、ヘンドリクスの肌が白くないから、ではありません。ここで「白人」というのは、比喩にすぎません。強者と言ってもよいかもしれません。ロックは強者にしかできない音楽です。もっと言えば、成功者の音楽です。
ロックは、弱者の遠吠えではありません。強者が、うしろめたさを感じながら、弱者のふりをするときに成立する音楽です。
ロックをすることは、うしろめたいことなのです(ところが、ロックをきく(みる)ひとはうしろめたくありません。)。
ロックをすることは、あるものを開放するのではなく、開放すればするほどかえって鬱屈する(またしてもところが、ロックをきく(みる)ひとはもっぱら開放することができます。)、そういった類の行為です。
だから、本来ロックは長続きするのです。正しくロックができるひとは、ほどよく開放し、ほどよく鬱屈し、つまりはバランスよく、ヘルシィに生きます。「ロックは早死に」というイミッヂが巷にありますが、たんなる誤解です。
ロッカーとは、アウトローではなく、アウトローであるようにみせかけて、ほかでもない王道をひた走るひとです。
(でも、ロックは音楽なので、音楽家がどうあるかによって規定しないようにしなければなりません。)
つづきます。
(春木)
第一に、へたうまは、パラドクスです。「へた」と言っておきながら「うまい」と言う。へたうまと言うとき、一見へただけどじつはへたでない、と言いたいのか。ちがいます。むしろ、へただけど、へたなまま、あるいはへただからこそへたではないと言いたいのでしょう。つまり、へたがエレメントとなってへたではないことが成立している、典型的なパラドクスです。パラドクスがなんらかの意味をもって成立する以上、そこには種としかけがあるはずです。
わたしのつくった料理を食べたひとが「うまい」と言えば、それは「美味い」を意味します。ついで「きみは料理がうまいね」と言うとき、それは「上手い(巧い)」を意味します。「美味い」と「上手い」、こられ二つのうまいのニュアンスのちがいに気づくこと、これがへたうまを解き明かす第一歩です。
つまり、へたうまは、ある種の価値評価ですが、そこには二重の価値が介在しています。ひとつは、最初の「へた」です。これはたとえば、音楽の演奏において、単純な意味で音高がずれているとか、リズムがよれているとかいう事実を評価しています。おおきくまとめれば、頭で理解できる技術にかんする評価をしています。うしろの「うま」は、頭で理解できる技術ではなく、あるいは、技術ですらなく、ほとんど「よい(「好き」と置き換えてもよいが、ややこしくなるのでとりあえず「よい」でいきます。)」と一緒ですね。「うま」と言いつつも、じっさいには、技術にかかわることを評価しているのではないです。単なる「よい」という感想です。
そのことを踏まえれば、へたうまは、じつは、元々は「うまへた」です。ややこしいことを言うようですが、以下のような意味で、です。うまへたは、へたうまの反対だととらえると、「技術はすぐれているのに、悪い」という意味です。その場合、最初の「うま」は技術にかかわる評価で、後の「へた」は、端的に「悪い」という感想です。それに対して、へたうまが元々うまへたであると言う場合のうまへたは、「よい、でも(よい割りには)技術は劣っている」という意味です。へたうまというのがききての評価であるかぎりは、へたうまという評価の前に、うまへたという評価がないとおかしいと思うのです。つまり、まず、ある音楽(家)にかんして、
1.「うまい(よい)」という評価があり、
2.よいけども意外に「へた(技術的にうまくない)」だという評価があり(「うまへた」となる。)、
3.そして、そこから、へたな部分がうまくなればさらによくなるかと言えばそうではなくて、実はへただからこそうまかった(よかった)のだというあとづけの事実が加わり、「へたうま」となるのです。
ゆえに、「ほんとうは」へたうまは、たんにうまい(よい)だけであって、へただからこそうまい(よい)のではなく、うまい(よい)音楽(家)が、〈たまたま〉へたであったというだけのことです。つまり、言いたいのは、「へたうま」という評価をするひとは、ある音楽が、(技術にかんして)へただから(こそそのことによってかえって)、うまい(よい)という因果関係を築いているわけですが、なにを根拠に築いているのかということです。
(技術にかんして)うまいという時点で、そもそも(技術にかんして)うまいことは、うまい(よい)感想をもたらすという前提があります。そうでないと、うまいという見方自体が発生しないからです(つまり、そもそもは、美味い料理をつくる技術が、上手い技術だとみなされるわけです。)。他方で、へたうまは、ふつう((技術にかんして)うまいがうまい(よい)につながる場合)とはちがって、(技術にかんして)へたがうまい(よい)につながっているという評価です。その場合、(技術にかんして)へたなことがうまい(よい)につながるには根拠が必要です。なぜなら、前提に反することを言おうとしているからです。しかし、じっさいには根拠はありません。とすれば、なぜ、(技術にかんして)へたなことがうまい(よい)につながると言えるのか。それは、じつは、へたなことがうまい(よい)につながることがあるということもまた前提であるからです。
つまり、へたうまを叫ぶひとは、ふつうとはちがって、(技術にかんして)へたなことがうまい(よい)につながるということを言おうとしているにもかかわらず、言う前にすでに、(技術にかんして)へたなことがうまい(よい)につながるということはある種の周知の事実なのです。このことは、A=Aを理解するために、「A=A」を知っていなければならないというのと同じでしょうか。
以上のことから、へたうまと言うときの「へた」には、すでに、「(へただけれども)うまい(よい)につながる」という意味が含まれていることになります。とすれば、へたうまの「へた」は、最初から、へたではなく、うまい、です。だから、へたうまは、「うまうま」つまり、たんに、うまい(よい)ということを言っているにすぎないのです。
「へたうま」の意味を理解するためには、(技術にかんする)へたが、うまい(よい)につながることを知っていなければなりません。しかし、(技術にかんする)へたが、うまい(よい)につながることを知っているならば、いまさら、へたうまという評価をする意味はなく、へたうまは、たんなるうまい(よい)と同じ意味になってしまいます。うまい(よい)、そして、たまたまへたである、と言うにすぎません。うまい(よい)、そして、たまたま声が低いというのと同じように。」
上記から、わたしが言いたいことは、要するに以下のことです。すなわち、「よい」という感想をもたらす演奏をそもそも「うまい」と言うはず(それがうまいの文法上正しい使いかたである)です。にもかかわらず、「よい」という感想をもたらしているある特定の演奏を、なぜ「へたうま」と評価するのか、ということです。音高がずれていようがなかろうが、ある音楽が「よい」という感想をもたらすならば、その音楽の技術は「うまい」と言わなければならないのではないでしょうか。「へたうま」だと言いながら音楽を鑑賞することは、「まずい。まずい。」といいながら満面の笑みで、ある料理を口に運び続ける行為に等しいです。
「へたうま」がすでに成立し、コンセンサスを得ている以上、へたうまという「うまい」感想をもたらす技術を一つの「うまい」技術だとらえることもできるし、じっさいひとはそうしています。ということは、へたうまをやろうとして成功するときは、へたうまうま、失敗するときはへたうまへた、と言われるのでしょうか。
ともあれわれわれが考えるのは、われわれのつくる料理(音楽)が、「巧い(うまい)けど不味い(まずい)」と言われるか、「拙い(まずい)けど美味い」と言われるか、どちらがうれしいか、ということです。
(春木)
03 | 2025/04 | 05 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | ||
6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 |
13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 |
20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 |
27 | 28 | 29 | 30 |
西中、春木、ふたりの自作自演歌手から成るロック・アンド・ロール・グループ。グループ名は、ラテン語のRecto Verso(おもて、うら)に由来。ひとをはっとさせる、かつ親しみやすいメロディをつむぎ、地域、時代にとら われず広く長く世に歌い継がれる歌をつくりだすことがヴィジョン。英語、フランス語、日本語でつづったオリジナルレパートリーは30曲、ストック曲は 120を越える。東京を中心に生演奏会を展開。楽器、録音器材にこだわりぬいた100%手づくりの音源もききもの。現在、岡田徹(ムーンライダーズ)のプ ロデュースのもと1stミニアルバム(2012年8月発売予定)を制作中。
使用録音マシン:Telefunken V72a 1960年代製、Telefunken V76 1960年代製、Telefunken U83 1950年代製、Microtech Gefell UM92S 1990年代製、Telefunken D19 BKHI 1960年代製、AKG B200 1960年代製、AKG D19CRCA 77DX 1940年代製、Neumann W444sta 1970年代製、Eckmiller W85
ヒストリィ:
2006年10月 西中と春木が出会う。
2007年1月 「Recto Berso」結成、および初めての生演奏会をする。
2007年3月 インターネットラジオ「噂のギグ」に出演する。
2007年6月 インターネットラジオ「噂のギグ」に出演する。
2007年11月 吉川忠英氏らとセッションする。屋敷豪太氏も同席。勉強する。
2007年12月 EMI主催オーディション 第1回Awake Sounds Audition 準優勝をおさめる。
2009年2月 ビーイング音楽振興会主催 2009BADオーディション最終選考通過
2009年3月 アルバム完成にむけて、録音をいっしょうけんめいにする。
2010年7月 アルバムのプリマスター版が完成する。
2010年10月 音密団により発掘、育成される。
2011年7月 BELAKISSのメンバー全員に、プリマスター盤を手渡す。